明治時代、神奈川県小田原市と静岡県熱海市の間には、人の力で客車を押す「豆相人車鉄道」が存在した。この鉄道は伊豆と相模を結ぶことから名付けられ、日本最初の人車鉄道として、地元有志の発案と「鉄道王」と呼ばれた雨宮敬次郎らの支援によって「豆相人車鉄道株式会社」として設立され、湯治場・熱海への交通手段として計画された。
路線は明治28年(1895年)7月に熱海〜吉浜間で開業し、翌明治29年(1896年)3月には小田原〜吉浜間が開通して全線が開通した。さらに明治33年(1900年)、小田原電気鉄道(現・箱根登山鉄道)と接続する形で早川〜早川口[=小田原]間が延伸され、町中までの乗り入れが可能となった。約25kmの道のりを、2〜3人の人夫が定員6〜8名の小さな客車を押して進み、所要時間は約4時間にも及んだ。現在の新幹線が同区間を10分以内で結ぶのと比べると隔世の感がある。運賃には上等・中等・下等の区分があり、急な坂道では下等客が降車し、人夫と共に客車押しを手伝わされたというユニークな逸話も残っている。
輸送力増強のため、明治39年(1906年)には動力を人力から蒸気機関車に切り替え、社名も「熱海鉄道株式会社」と改称して運行を開始した。これにより、所要時間は約3時間へと大幅に短縮された。
熱海鉄道は明治41年(1908年)に大日本軌道へ合併され、以後は同社小田原支社管轄の軽便鉄道(蒸気機関車牽引の小規模路線)として運行されたが、国の幹線整備が進むとその役割を終えていく。大正11年(1922年)、並行して鉄道省熱海線(現・JR東海道本線、小田原〜真鶴間、蒸気機関車牽引の本格幹線)が開業したため、軽便鉄道の同区間は廃止された。残る真鶴〜熱海間も、大正12年(1923年)の関東大震災で壊滅的被害を受け、復旧されることなく全線廃止となった。震災被害に加え、鉄道省熱海線の開通で競争力を失っていたことも背景にあった。
開業からわずか28年で歴史の幕を下ろしたが、風光明媚な海岸線を走り湯治客らを運んだこの鉄道は、近代における熱海発展の礎を築いただけでなく、日本初の人車鉄道として房総半島や北海道など全国各地の人車鉄道建設の契機となった。現在も道路形状や石垣などにかすかな痕跡が残り、当時の絵葉書や記録とあわせて往時の賑わいを静かに物語っている。






