第10代 崇神天皇 皇居趾 – 磯城瑞籬宮

磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)は、『日本書紀』や『古事記』に記される第10代崇神天皇が営んだ皇居である。現代の歴史学や考古学において、初代神武天皇から第9代開化天皇までの天皇は実在が疑問視される一方、崇神天皇は実在した最初の天皇とする説が有力である。このため、磯城瑞籬宮は、神話の時代から史実の時代へと移行し、ヤマト王権による本格的な国家統治が始まった画期的な場所と見なされている。

宮の所在地は、大和国城上郡、現在の奈良県桜井市金屋付近と伝えられる。その具体的な比定地には複数の説があるが、有力な候補地の一つとして、志貴御縣坐神社(しきのみあがたにいますじんじゃ)の境内が挙げられる。

境内には「崇神天皇磯城瑞籬宮趾」と刻まれた石碑が建立され、当地に宮があったという伝承の存在を今に伝えている。このほか、同神社の西側に位置する天理教敷島大教会から三輪小学校にかけての一帯も、広大な宮殿が広がっていた推定地の一つとされている。

崇神天皇の治世は、国内で疫病が流行し民が離散するなど、国家的な危機にあったと記紀は伝える。天皇はこの磯城瑞籬宮で、それまで皇居内で共に祀っていた天照大神と倭大国魂神を、それぞれ別の場所へ遷して祀るという重大な祭祀改革を断行した。天照大神は皇女の豊鍬入姫命に託して笠縫邑に祀らせ、これが伊勢神宮の前身とされる祭祀の始まりと伝えられる。また、三輪山の大物主神の神託に従ってその祭祀を確立し、国の安寧を取り戻したとされる。

さらに、大彦命らを北陸、東海、西道、丹波の四方に派遣する「四道将軍」の伝説も、この宮がヤマト王権の支配を全国に拡大していくための軍事・政治的拠点であったことを物語る。

このように磯城瑞籬宮は、単なる天皇の住居ではなく、古代日本の祭祀と統治の体制を確立した中心地であった。伝説から史実へと移行する時代の転換点に位置し、現在の日本につながる国家形成の礎が築かれた、きわめて重要な史跡と位置づけられている。

第10代 崇神天皇 皇居趾 - 磯城瑞籬宮 推定地 光景写真
志貴御縣坐神社 境内
第10代 崇神天皇 皇居趾 - 磯城瑞籬宮 推定地 光景写真
天理教敷島大教会〜三輪小学校付近

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