初代 神武天皇 皇居趾 – 橿原神宮 / 橿原宮

奈良県橿原市、大和三山の一つである畝傍山(うねびやま)の東南麓に鎮座する橿原神宮は、初代神武天皇が即位した皇居「橿原宮(かしはらのみや)」があったと伝えられる地に創建された神社である。祭神には神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を祀る。『日本書紀』によれば、日向を発った神武天皇は、幾多の苦難を乗り越える東征の果てに大和へ入り、辛酉の年(紀元前660年)の春正月の庚辰の日、この地で即位したと伝えられる。この日が現在の暦で2月11日にあたることから「建国記念の日」の由来となっており、ここは神話・伝承上の建国の聖地として位置づけられている。

しかし、古代日本の形成過程を俯瞰するとき、この橿原の地と共に極めて重要な意味を持つのが、第十代崇神天皇と、その舞台となった三輪山周辺の地域である。『日本書紀』において、神武天皇と崇神天皇は共に「御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)」という同一の称号で称されている。この称号をもとに、神武が皇統を創始した「神話的な初代」であるのに対し、崇神は国家体制を実質的に整備した「実在性が高い最初の天皇」であるとする学説も存在する。

実際、橿原から北東に位置する三輪山の麓には、崇神天皇の宮(磯城瑞籬宮)が置かれたと伝わる。この一帯には、近年考古学的な注目を集める「纒向(まきむく)遺跡」が広がっている。纒向遺跡は3世紀から4世紀初頭にかけての大規模な集落跡であり、日本各地の土器が出土することから、広域な政治連合の中心地の一つであったと考えられている。また、最初期の大型前方後円墳とされる箸墓古墳もここに位置しており、三輪山を神体山として仰ぐ大神(おおみわ)神社信仰とも相まって、初期ヤマト王権の重要な拠点であった可能性が高い。

つまり、神武天皇の「橿原」が建国の精神的・理念的な原点であるならば、崇神天皇の「三輪・纒向」は、国家としての権力が形成されていった歴史的な舞台として、相互に響き合う関係にあると言える。明治23年(1890年)、民間有志の請願と明治天皇の御聖慮により創建された橿原神宮は、京都御所の内侍所(ないしどころ)を移築した本殿や、旧柳本藩織田家の藩邸表向御殿を移築復元した文華殿などの貴重な建築群を有し、近代日本が自らのアイデンティティを「神武創業」の精神に求めた象徴的空間となった。

約53万平方メートルに及ぶ広大な神域は、畝傍山の深い緑と調和し、常に清冽な空気に満ちている。そこは単なる信仰の場にとどまらず、神武天皇の伝説から、崇神天皇、そして纒向遺跡に見る王権の伸長へと続く、古代大和の壮大な歴史ロマンが交差する結節点でもある。橿原神宮は、神話と歴史の狭間に立ち、日本という国の成り立ちを静かに、しかし力強く現代に語り続けているのである。

橿原神宮 鳥居 光景写真
橿原神宮 光景写真

>> 【Googleフォト】 橿原神宮

nk
nk

個人的に気になったものを写真と共にご紹介しています。
乗り物、建物、街の光景、歴史、山容、など

記事本文: 48