纒向石塚古墳(まきむくいしづかこふん)は、奈良県桜井市太田字石塚に所在する古墳時代最初期の古墳である。全長は約96メートル(資料によっては約99メートル前後とされる)で、3世紀初頭から中頃に築造されたと推定されているが、築造時期については研究者間で議論が続いている。同じく纒向遺跡に存在する箸墓古墳やホケノ山古墳とともに、日本最古級の前方後円墳の一つとされる。
この古墳は、後円部に対して前方部が短く、三味線の撥(ばち)のように開く「撥形(ばちがた)」の形状を持ち、出現期の前方後円墳に共通する特徴を示す。墳丘の高さは低く、定型化した前方後円墳の前段階にある「纒向型前方後円墳」、あるいは墳丘墓の一種とする見方もある。墳丘には葺石や埴輪は用いられておらず、後円部には竪穴式の埋葬施設があった可能性が指摘されているが、実際の検出例はなく、太平洋戦争中の削平によって墳丘の一部が失われたとされる。
纒向石塚古墳が築かれた纒向遺跡は、初期ヤマト王権の形成期における重要な拠点であったと考えられており、この古墳はその中心部に位置する。前方後円墳はヤマト王権と地方豪族との政治的同盟の証として全国に広まった墓制とされ、纒向石塚古墳はその起源を探る上で重要な事例の一つである。
築造年代が3世紀初頭から中頃とされるため、記紀における第10代崇神天皇の在位年代(3世紀後半~4世紀初頭とされる)より古い可能性がある。このため、被葬者はヤマト王権の成立を主導した最初期の王、または有力者の一人とする説があるが、具体的な人物は特定されていない。また、古墳の主軸線が三輪山方向を意識している可能性を指摘する研究者もいるが、これを直接裏付ける確証はなく、推測の域を出ない。
このように纒向石塚古墳は、その築造時期、形状、立地から、ヤマト王権の成立過程や前方後円墳体制の起源を解明する上で欠かせない、日本古代史研究における重要な遺跡であり、2006年には国の史跡に指定された。




