纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)は、『日本書紀』や『古事記』において、第12代景行天皇が営んだとされる皇居である。その伝承地は、現在の奈良県桜井市穴師に比定されている。
記紀によれば、景行天皇は即位4年(伝承では西暦74年)に、父である垂仁天皇の纒向珠城宮からほど近いこの地に宮を遷した。この宮を拠点として、大和朝廷(ヤマト王権)は日本列島各地へとその影響力を拡大していく。特に、景行天皇の皇子である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の英雄的な活躍は、この時代を象徴する物語として名高い。日本武尊は父帝の命を受け、この宮から西方の熊襲、そして東方の蝦夷の征討へと旅立ち、大和朝廷による国家統一事業を大きく前進させたとされる。このように纒向日代宮は、古代国家形成期の重要な拠点として描かれている。
しかし、この記紀の伝承と考古学的な知見との間には、大きな年代の隔たりが存在する。纒向日代宮の伝承地一帯に広がる纏向遺跡は、考古学調査によって、3世紀初頭に突如として出現した巨大な政治都市であったことが判明している。この遺跡は、初期ヤマト王権の中枢であり、邪馬台国の最有力候補地としても注目されている。つまり、記紀が語る1世紀という年代と、遺跡が示す3世紀という年代には約150年ものずれがある。
このことから、今日の歴史学では、記紀に記された初期の天皇の年代は、実際の年代よりも古く引き伸ばして設定されたものと考えられている。景行天皇や日本武尊の物語は、3世紀の纏向遺跡を舞台として成立した初期ヤマト王権の史実や記憶が、後の時代に神話的な物語としてまとめられたものである可能性が高い。
結論として、纒向日代宮は、記紀が伝える国家統一の物語の舞台であると同時に、考古学が明らかにした3世紀のヤマト王権誕生の地という、二重の歴史を持つ場所である。伝承と史実が交錯するこの地は、日本という国家の黎明期を解き明かす上で、極めて重要な意味を持つ遺跡である。
